博多が「日本のリバプール」と呼ばれていた1970年代前半、博多のミュージックシーンは大きく2つの流れに分かれていた。一つは天神の「照和」に出演していたフォーク系グループ。もう一つは、中洲のダンスホール「赤と黒」に出演していたロック系グループである。

ちょうど福岡から「井上陽水」や「チューリップ」、「海援隊」などが相次いで全国デビュー。フォークミュージック全盛だった。にもかかわらず「赤と黒」では「R&B」「スマッシャーズ」がハコバンドとして、また「サンハウス」や小倉の「シンデレラ」もフォークに負けじとロックシーンで大活躍。そんな時代である。

「MILK」が博多のミュージックシーンに登場したのは1972年のことである。

のちにリーダーになるベースの仲村(旧姓;佐藤)とボーカルのアキラが、それまで在籍し中洲「ナイトパレス」や久留米「クインビー」などにハコで出演していた「忍者部隊」という人気バンドをやめ、新たに「赤と黒」でトラをやっていたリードギターの(世利)けいいち、中州のクラブでコンボバンドのドラムをやっていた永田(カッパちゃん)を加えて4人でスタートしたのが「Milk」だった。

結成後間もなくサイドギターにヌーボーを正式メンバーとして加え、結果5人編成となった「Milk」はすぐにそのセンスや実力を認められ「赤と黒」「ナイトパレス」のオーディションに合格。ハコとして出演する。また、長崎・佐世保のベースキャンプや将校クラブ、そして「ロックハウス」「照和」にも出入りする人気バンドで、「ナイトパレス」では「クリスタルキング」、「赤と黒」では「R&B」「ブロークダウンエンジン」などがチェンジ(バンド)だった。

当時の博多ロック創生期にはほとんどのバンドが洋楽やブルース、R&Bのカバー曲を演奏していた。「MILK」も1972年結成当初、フリーやストーンズ、チャックベリーなどのR&R〜リズムアンドブルース中心のバンドだった。(※ちなみに「田舎者」の山善は、当時松屋の屋上ステージで「フリーのライドオンポニー」を演奏っていた「Milk」を観て大いに感激。今でもこの曲を聞けば35年前の最高にかっこよかった「Milk」を思い出すらしい)

人気が出るにつれ、ダンスホールの仕事だけでなくコンサートやライブの仕事も増えだした「Milk」は、「はっぴぃえんど」や「村八分」のようなオリジナルの曲づくりにも力を入れはじめ、まもなく「一つのLIVEを日本語のオリジナル曲のみで通せる、福岡で唯一のロックバンド」になっていた。(このウエブサイトで聴ける音源は「Milk」がハコバンドとして中洲の「赤と黒」に出演していたリハーサル時に収録されていた完成前のオリジナル曲である)今でこそ常識だが、まだこの頃はダンスホールやコンサート、ライブで活躍していた博多ロックグループが日本語の歌詞によるオリジナル曲でフルステージをこなし、バックコーラスでハモリまで入れていたバンドはまさに革新的。その上、メンバー全員が化粧をしてステージに立ち、ユニフォームまで揃えたロックバンドは九州福岡ではまだこの「Milk」だけだった。

すぐに「YAMAHA福岡」の目にとまりコンサートやライブ活動のバックアップやマネジメントを受けられるようになった。それをきっかけに、プロモ音源もYAMAHAアービー・ロードスタジオで収録。「Milk」は次第に地元のラジオやテレビ番組などにも出演するようになり、コンサート、学園祭にもひっぱりだこで1日に3カ所での営業活動も珍しくなかったという。

行く先々で「MILKのステージと日本語によるオリジナルR&R」は、ビジュアル&サウンドの両面からとても衝撃的だったに違いない。

そんなスリリングな日本語の歌詞で歌い、踊り、そしてシャウトするボーカル・アキラを中心とした「MILK」の鮮烈極まるロックステージは、福岡のミュージックシーンに一大センセーションを巻き起こしていた。所属プロダクションからは、バンド名の印象から「女性をターゲットにしたアイドルロックグループ」として押し上げられ、「チューリップ」や「海援隊」などフォークバンド全盛であったにもかかわらず、福岡のロックバンドとしては唯一、女子学生からも爆発的人気を得ていた。

なるほど「赤と黒」での出演ギャラも大御所「スマッシャーズ」の後継バンドとして抜擢され、当時では破格の1カ月30万円、さらに「ナイトパレス」ではそれ以上!だったと言うから、その時の彼らの人気や期待度がいかに高かったかが伺える。

こうして1973年、「MILK」は福岡で人気No.1のロックグループとしてその名を轟かせ、将来のレコードデビューも約束されていた。

1973年の学園祭シーズンに「MILK」は博多で最も歴史のある遊園地「香椎(かしい)花園」で開催されたコンサートに「サンハウス」とともに出演した。当時の「Milk」はまさに人気絶頂。営業的にスケジュールはいつもビッシリだった。全員がまだ20歳そこそこと若かったこともあり、ほとんどのメンバーがどんなに忙しくても自分たちの好きな音楽を毎日プレーできるだけで心満たされていたーそんな時期でもあった。

そうした中にあってもこの頃から何人かのメンバーからは、「ハコバンド中心ではなくさらなる将来を見据え、先輩バンド「サンハウス」のようにもっと自分たちを自由に表現できるコンサート、ライブバンドとして活動すべきでは…」といった考え方が出始めていた。そのため「Milk」はハコの仕事を一切受けない時期もあった。とはいえ、福岡で人気No.1のロックグループでもコンサート、ライブ出演だけでは食べてゆけない。(そんな状況から、メンバー間でバンドの方向性や将来への考え方の違いが徐々に見え隠れし始めた時期であった)しばらくは長崎・佐世保のベースキャンプ巡りや、伝説のロックバンド「村八分」とのクラブ出演などで生計を立てていたらしい。

そんな折、「Milk」の活動が広島から博多のバンドをスカウトに来ていた「キャロル」の中国地区プロモーターの目にとまった。キャロルとの広島でのコンサートを含むブッキングオファーだ。以前からくすぶりはじめていたバンドの方向性や将来観の違いから、この時も全員が博多を離れることに納得した訳ではなかったが、結局「Milk」はそのオファーを受け、約4カ月間の契約で福山と広島市内を中心に演奏活動が始まった。

キャロルとのコンサートは広島へ移動した直後の1974年2月末、広島市公会堂(現広島国際会議場)で昼・夜の2回公演で行われた。化粧をした男達が繰り広げる博多出身のロックバンドをはじめて生で観るリージェントに黒革ジャン一色のロックファンで会場は埋め尽くされていたが、すぐにスタンディングオベイションから"MILK!"コールを受けるなど評判は上々だった。キャロルとの公演は大成功を収め、彼らの実力やセンスを認めた矢沢永吉からも東京進出を勧められた。

その後、福山市と広島市のディスコ「B&B」に出演(トップページ写真)。そのかたわら、宮島近くにその頃オープンしたばかりの「広島ナタリー」にも、スポット的に「キャンディーズ」らと出演した。(※大きな観覧車と巨大船がランドマークの「広島ナタリー」は、開園直後からキャンディーズをCM抜擢していたことで全国的にも話題になった、アミューズメントパークの先駆けだった。)また、広島市内で「ブルーコメッツ」との競演をきっかけにジャッキー吉川からも認められ、東京進出話が浮上したのもその時であった。

「Milk」にとってバンドの将来を左右する大きな転機を迎えていた。

再びメンバー全員で何度も話し合ったが、やはり博多を離れたあたりからくすぶっていた個々の将来に対する方向性の違いがこの時ばかりは大きく露呈。ついにリーダーの仲村は広島での契約終了後、「Milk解散」を決断する。

博多へ戻ったのち、仲村は郷里・大分へ帰省。ドラムのカッパとサイドギターのヌーボーは、博多と小倉を中心に新バンド「ピンクトップ」を結成し演奏活動を続けた。リードギターのけいいちは東京のロックバンド「オレンジ」のギタリストとして、そしてアキラは「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」の新ボーカル候補として、それぞれ上京することになる。

1972年の結成から、わずか1年7カ月後の出来事だった。