ライブスペースねいろや
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飾り 音楽を生業にして 飾り

この記事は、大分合同新聞社出版の月刊ミックス2001年10月号に掲載されたものです。


マスターは別府市出身だが、父親の仕事の関係で小学3年の時、福岡市へ引っ越した。 音楽に興味を持ったのは、福岡大学付属大濠高校1年の学園祭で先輩のバンド演奏を見た時。 「カッコいいとも思えない先輩が女子高生にキャーキャーと言われ、テープを投げられる」 光景を目の当たりにし、「女にもてるために」同じことを考えた友達とバンド結成を決めた。よくある話だ。 パート決めはじゃんけんで行い、負けたのでベースギター担当になった。 アルバイトをして7,000円ぐらいのベースを購入。ビートルズや日本のグループサウンズをコピーした。 当時は練習場所を確保するのも一苦労。たまたま楽器を持ってメンバーと近所を歩いていると、 カトリック系幼稚園のシスターが「バザーで演奏してくれるなら、園内で練習してもいいよ」という 条件で、場所を提供してくれることに。バザーではイス取りゲームのバックミュージック担当。 園児を前に初めて演奏した。

飾り プロまでもう一歩・・・ 飾り

九州産業大学に進学してからはまさに音楽漬けの生活。 当時「アートロック」と呼ばれ始めていたジミ・ヘンドリックス、クリームなど輸入盤レコードを買いあさった。 演奏活動は高校時代から出演していたゴーゴークラブのハウスバンドのアルバイトをしたり、久留米や佐世保の店まで遠征もしたりも。 プライベートでもバンドをつくり、ハードロックやグラムロック、オリジナル曲などをやった。プロとしてやっていきたいと真剣に思うようになっていた。 3年のころ結成したバンド「ミルク」は、第1次博多めんたいロックのムーブメントの一翼を担った。 鮎川誠率いる「サンハウス」、田中一郎の「リンドン」や山善の「田舎者」などと学園祭、コンテストに出演した。 レコーディングも行った。レコードデビューまであと一息のところまで行った。 広島のプロダクションから誘われ、矢沢永吉の「キャロル」の前座を中国地区でやったり、「ニューブルーコメッツ」の前座の話も来た。 しかし、徐々にバンド内で方向性の違いが、露出し、仲村さんはバンドを去った。 その後は、会社員、飲み屋バンドなどを経験し、30歳目前の1981年、別府に帰郷。別府市や大分市でレンタルレコード店長、 ライブハウス店長やブッキングマネージャーを経て、94年からは結婚式場の喫茶店を経営した。音楽の店をやっていく厳しさ を知っていたので、今さらまた自分で「ねいろや」のような店を作る気はさらさらなったという。 ところが周囲の人や家族にラストチャンスでやったら!と励まされて翌月の2000年11月、「ねいろや」は誕生した。 ステージに楽器がそろい、店の規模に合い、しっくりくる音響を備え、壁には古いレコードジャケットが飾られている。

飾り 音楽関係者の交流を 飾り

仲村さんは「音楽をやっている若い人にもぜひ来て欲しいけど、装飾やかかっている音楽で昔を懐かしんでもらえる世代にも来てほしい。 久しぶりに演奏してみるかーなんてことになったらいいですね」コンセプトを話す。「ねいろや」を一言で紹介するならば「60年代と70年代が広がっている」。 オープンに合わせ設計したのでまだ新しく、クリーンな環境も魅力だ。 方針としては「ライブだけの店にしたくはない」。が、ニーズがあり、ロックやフォークのライブも行われるようになった。グループでの貸し切りもでき、 フラメンコやブルーグラスのコンサートも開かれるようになった。クラシックも企画中だとか。清潔感のある店だけにいろんなイベントを実験できそう。 「ねいろや」が軌道に乗ってきた仲村さんにはひとつ夢がある。それは「大分の音楽関係の店を持つ人が交流する」こと。簡単なことに感じられるが現状は 「それぞれの店にそれぞれの客が付き、広がりがない」という。「大分の音楽状況をさらに楽しくするためにぜひ協力して、共同イベントをやってみたい」 と話す。「大分で最年長のロックミュージシャンかも」と自己紹介してくれた仲村さんならかなえられる夢だと確信している。 仲村さんは「アマデウス」のニックネームを持つ。同名映画の主人公モーツァルトの笑い方に似ているのでつけられたという・・・。